ある週末、スポーツ関係の大会で宿泊を伴う遠征に出かけた。夜、施設の風呂場で目を疑った。まだ体もろくに洗わないまま、バシャバシャと音を立てて湯船に飛び込む少年たち。湯を外に出そうとする遊びに興じ、まるで地震でも起きたかのような騒ぎを起こしている。中学生らしい。
食事会場では、食べ終わった食器にゴミがそのまま残っている。嫌いなものは堂々と残し、好きなものは「おかわり」。静かに食べようという空気はなく、部屋に戻っても騒ぎは続く。こうした“宿泊を含む場面でのふるまい”は、以前であれば学校が主導する部活動の中で、当然のように生活指導の一環として扱われていた。技術の指導だけでなく、集団の中での在り方を学ばせる機会として機能していたのだ。
ところが今、その「当たり前」が大きく揺らいでいる。部活動の地域移行が進められる中で、私たちは技術指導の担い手を探すことばかりに目を奪われていないか。生活指導――つまり、集団行動や公共のマナー、他者との関わり方を教えるという教育の根幹が、どこにも引き継がれていないことに、気づいているだろうか。
この遠征での光景を見て、私は思わず原田隆さんの言葉を思い出した。
「教員は技術も生活も、両方を指導してきたのだ」と。
まさにその通りだと、風呂場の湯気の向こうに、かつての教室の風景がよみがえった。
地域移行は避けて通れないが、その中で「学校が担っていたもの」が何だったのか、そしてそれをどう分有し、補完し合っていくか。今こそ、目を凝らして見つめ直す必要がある。技術の裏には、必ず生活がある。その生活に目を向けない教育に、果たして成長はあるのか。
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