小学6年生の秋。
担任の先生は、みんなから「大先生」と呼ばれていた。
体が大きくて、声も大きくて、とにかく“こわい先生”だった。
ただ立っているだけで、空気がピリッとする。
まるでラスボスのようだった。
9月。卒業アルバム用の顔写真のイラストが配られた。
クラスのみんなは、自分の先生の似顔絵に色をぬったり、
背景に小さなイラストを描いたりして楽しんでいた。
彼の手元にあったのは、大先生の顔の下絵だった。
そのときふと、思い浮かんだのが
テレビで流行っていた『ドラゴンボール』のフリーザ。
ムキムキの血管がピキピキと浮き出た、あの最終形態。
彼は、大先生の“おでこ”に、そのムキムキ血管のマークを描いた。
「ウケるかもな」
「ちょっとスカッとしたかも」
——そんな軽い気持ちで。
でも、その夜から落ち着かなくなった。
心がざわざわする。
胸の奥がチクチクする。
次の日の朝。
教室に入った瞬間、空気が止まった。
大先生が、前に立っていた。
「先生の顔に、ふざけた絵を描いたやつがいる。名乗り出ろ。出てこないなら、全員の作品を使わない。」
静かだけど、ものすごくこわい声だった。
彼は、震える足で立ち上がった。
やったのは自分だ。
そう思って、前へ出た。
みんなが驚いたような目でこっちを見ている。
「まさか、君が?」という空気。
彼は、先生の前に立った。
そのとき、先生が言った。
「……お前か?」
——怖かった。
体が凍りついた。
勇気がしぼんだ。
「い、いや……ぼくじゃありません……」
そう言って、席に戻った。
他にも数人が前に出てきたが、みんな同じように戻っていった。
それからの毎日が、地獄のようだった。
大先生の顔をまともに見られなかった。
教室にいるだけで胸が重たくなった。
「なんで描いたんだろう」
「なんで言えなかったんだろう」
心の中で、何度も自分を責めた。
12月。終業式のあと、バレークラブの合宿があった。
その夜、同じクラスのNくんと同じ部屋になった。
電気を消して、寝る前。
Nくんがぽつりと言った。
「なあ……ムキムキマークのこと、どう思う?先生怖いよね…」
——心がドクンと鳴った。
そして、彼は言った。
「……あれ、ぼくが描いたんだ」
Nくんはしばらく黙って、そしてまっすぐに言った。
「そっか。なら先生にちゃんと言ったほうがいいよ。 君が正直に言ったほうが、先生も、ぼくたちも気持ちがいいと思う」
その言葉は、あたたかくて、やさしかった。
“こわい”より、“正直にいたい”という気持ちが、少しだけ大きくなった。
—
年が明けて、3学期の始業日。
彼は朝、職員室の前で深呼吸し、ドアをノックした。
「先生……あの、9月のムキムキのやつ……ぼくが描きました。すみませんでした」
先生は、しばらく彼の顔を見て、
ふっと笑って言った。
「ああ、あれか。お前だって知ってたよ。自分で言えたんだな」
その瞬間、彼の目から涙がポロポロこぼれた。
声も出ないほど、わんわん泣いた。
それから、教室の空気が少しだけ変わった。
心の中の重たさも、少しずつほどけていった。
あのときのNくんの一言がなければ、
彼は今でも苦しかったかもしれない。
ムキムキマークも、自分の弱さも、
そして、Nくんのやさしさも——
彼はずっと、忘れない。
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